少年の憂鬱 −The Boy have worries−


  ここはアーカイアという世界のハルフェアという国。自分は黄金の歌姫に召喚され、英雄として悪い虫と戦う。その戦いを、脇に座り込んで顔をのぞき込んでいるラナラナという女の子が、運命の相手として応援してくれる。
  そばにいる女の子との会話でわかったことを、まとめるために考えていると、音羽響は自分が冴えていくのを感じた。自分の部屋のドアから飛び出したとき、なにかショックがあったか、それとも召喚そのものに、乗り物酔いのように酔ったのかもしれない。それが気楽さと共に、どこかへ消えつつあるように感じられる。
  知っている世界からははるかに遠く、もちろん両親はおらず、学校の先生も友達も、そしてなによりひびきも、誰もいないのだ。血が引くような冷たい不安が頭をもたげる。
  だが、真っ先に『なんとかしなくては』と思い浮かんだのは、自分のベッド上に放り出したままで、ページが開いている雑誌のことだった。
  『呼んでも僕が食事に降りていかなくて、親が部屋に入ってきたら!』
  その考えに、響は思わず跳ね起きた。その瞬間、響の顔をのぞいていたラナラナと、互いの額を思い切りぶつけてしまう。
「きゃぁっ!」
「いってっぇ!」
「やーん、痛いよぉ〜、響兄ちゃんっ。」
  ラナラナは、響の脇に座っているのはそのままに、涙目で響をにらみつけ、帽子の淵に近い赤くなったおでこを、やはり両手で押さえている。
  響は起き上がり、あぐらをかいて体を丸めるように、額を両手で押さえてうめいた。
「つぅ・・・。ご、ごめん、ラナラナ。大丈夫?」
「う、うん、大丈夫ょ。響兄ちゃんは大丈夫?」
「ちょっと痛かったけど、大丈夫。ぼくは石頭だからね。」
  響はそう言って、自分の握った手で己の額のぶつけた所をかるく叩いた。
  一瞬の事件が終わって、響は元の思いに戻った。帰る方法もわからない異世界にいることが事実だと、なぜか確信はできた。だがアニメでないのなら、自分だけが英雄ということはないのではないか。召喚された人々は、みながそれぞれの立場や国で、英雄と祭り上げられ、悪ければ召喚された者同士が戦うことだってあるかもしれない。そんなストーリーを持つアニメもあったことが、記憶の引き出しから浮かび上がる。
「ラナラナ、アーカイアに召喚されたのって、僕だけなのかい?」
「ううん、違うよ。だけど、ラナラナの機奏英雄は響兄ちゃんだけだょ!」
  ラナラナの答えからすると、どうもシリアス路線らしい。一人で活躍する異世界英雄伝の主人公、という完全調和のストーリーは期待できない。
「悪い虫と戦うって言ったよね。それはどんな虫なの?」
「えっとね、ラナラナくらいの大きさのから、あまり沢山はいないらしいけど、お屋敷の建物くらい大きい虫もいるみたいょ。
  硬くて、でこぼこしてたりトゲがあったり、足が6本あったり牙があったり、それで人を襲ってかみ殺して、食べるんだって。」
「怪物ということだね。」
  それを聞いてうなづくラナラナをみて、響はふと思った。アーカイアの人がいう「怪物」と、自分が考える「怪物」を同じ感覚でとらえてよいかどうか。その考えと「怪物」という言葉にラナラナがうなづいたことから、響は唐突に言葉が通じている不思議さに気づいた。
「あれ、ラナラナは僕の言葉がわかるの?」
「うん。わかるょ。どうして?響兄ちゃんだって、ちゃんと話して、ラナラナの言うことわかるんでしょ?」
  響は、自分の思考も言葉も自分の言葉、つまり日本語のつもりでいた。だが、ラナラナにとっての普段の言葉を話しているらしい。
「ラナラナ、お、は、よ、う。」
  響は、意識して「おはよう」の一文字ずつを、音として「発声」した。
「なに?」
  不思議そうな顔をするラナラナに、再度、発声してみる。
「お、は、よ、う。」
「オょ、ハァ、ヨオ?なあにそれ、響兄ちゃん?」
「おはよう、ラナラナ。」
「おはよう、響兄ちゃん。だけどもうお昼はとっくにすぎたょ。へんなの。」
  言葉として「話す」と、ラナラナに理解できる言葉を発しているらしい。そうすると、日本語で考えているのに、ラナラナに通じるアーカイアかハルフェアの言葉を、口は勝手に話していることになる。その不気味さが、響の胸中の不安を増大させていく。
  異世界の言葉を身に付けることなど、できるわけがない。知らないうちに身についているといえば睡眠学習とか、異世界召喚を実体験した今では魔法という言葉しか、彼は思いつかなかった。理由が分からなければ、いつまで有効かもわからない。次の瞬間にも、ラナラナと意思疎通ができなくなる危険もある。
  言葉が通じるうちに、なるべく事情を聞かなくてはならない。響は少しずつ焦り始めた。
「その怪物と、どうやって戦うの?」
「絶対奏甲を使うの。機奏英雄と、歌姫と、絶対奏甲が『調律』して、すごい戦う力になるのょ。」
  絶対奏甲という武器を使うらしいが、ラナラナが話す様子だと、使うことに不安はなさそうだ。それが困難なら、響が絶対奏甲を使えるかどうかで、彼女はもっと不安がっているだろう。召喚された人間なら、ほとんど使えるのだろうと思う。
「僕がもとの世界に戻る方法は、知ってる?」
  響がそういうと、ラナラナは表情を曇らせた。
「ごめんなさい。ラナラナは知らないょ。だけど『歌姫大戦』の時の機奏英雄は、もとの世界に帰ったって言い伝えだから・・・ソルジェリッタ姉様なら知ってるかもしれない。
  だけど・・・帰っちゃうの?響兄ちゃん。せっかく見つけた運命の人なのに。英雄になって、そばにいてょ。」
「い、いや、虫を退治しなくちゃいけないんだろ。ラナラナに黙っていなくなったりしないよ。聞いてみただけさ。」
  ラナラナは無言で響を見つめた。響は自分の焦りも感じていたが、その年齢からか、感情の起伏が激しい彼女を相手に、詳しい事情を根掘り葉掘り聞くことをあきらめた。
  それはラナラナが、すべてに答えられる知識を持っていないことと、なにより響自身が、困る彼女を見ていられないからであった。もし泣き出されたりでもしたら、罪悪感に打ちのめされそうな気がする。
  だが、いまラナラナが口にした「歌姫大戦」など、わからないことは多い。もっと大人で知識もあり、冷静な人と話す必要があった。
『帰る手段が見つかるまでは、この子の笑顔のために頑張ってもいいか。』
  そう心の中で思いつつ響は立ち上がって、座っているラナラナに手を差し伸べた。
「虫と戦うには、どうすればいいんだい?ラナラナのお姉さんに聞けば、わかるかな?」
「うん。ソルジェリッタ姉様は、ハルフェアでも一番の物知りだょ。学者みたいに知ってるんじゃないけど、誰が知ってるか知ってるし、幻糸や歌術、絶対奏甲だったら、学者にだって負けないもの。」
「じゃ、午後も遅くなるから、行こう。」
「うん!」
  ラナラナが響の手を取って立ち上がり、彼の隣に立った。彼女の身長は、響の肩にも届かない。「ちっちゃな女の子」だ。だが手を繋ぐままではなく、腕を組んできた。
  響の脳裏に、怒ったひびきの様子がとっさに浮かぶ。そのひびきは「幼児趣味だったの、あんたって!?」と響を責めていた。
  『僕の好きで召喚されたり、ラナラナと運命で結ばれてたわけじゃないよ。』
  見知らぬ世界で不安に押しつぶされそうなのにもかかわらず、ラナラナの手前、それを表に出すわけにもいかない。逆にあてもない異世界で、ラナラナが王女ということに、無自覚ながら頼る部分も、ないとはいえなかった。
  2人は腕を組んで歩き出した。ラナラナが案内するその方向にはルリルラ宮がある。その扉をくぐったとき、誰に会うことになるかを響は知るよしもない。
  まして彼自身は冴えた気でいたが、召喚の酔いは解消されたとは言えなかった。本当に目が覚めていたのなら、右も左もわからない異世界に召喚されて、パニックを起こすこともなく、歌姫、歌術、機奏英雄、絶対奏甲といった異質な言葉を、全く抵抗なく受け入れられたことに、言葉の問題のように疑問を持てただろう。
  だがこれらは、この先の過酷な運命とともに、いまの音羽響には思いの至らないことであった。

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