ドアの向こう −Beyond the Door−


  視線はゴールラインだけを見ている。息づかいと、心臓の鼓動がガンガン響く。足でグランドの地面をけって前へ前へ。
『なんてデリカシーがないのっ、響ったらっ。幼馴染に告白なんて、どっちみちずっとそばにいたくせに、図々しいっ。』
  中間点を過ぎる。短パンのすそ、シャツの袖がなびき、耳に風音が流れ込む。ひもをきつく結んだスニーカーが、かすかに痛い。その足で地面をける。
『今日は、会っても知らん振りするしっ。仕返しのつもり!?
  こんなとき、女の子のほうから、話しかけられるわけ、ないじゃないっ。』
  前傾し、頭を前に出すようにしてゴールラインを駆け抜ける。脇で手が振り下ろされ、ストップウォッチを停止させる音が、かすかに聞こえた。
  力を抜いて、スピードを殺す。立ち止まって中腰になる。少し曲げたひざに両手をつき、地面へ顔を向けて息を整えていく。鼓動が胸とこめかみで打つ。
「どしたの、ひびき。全然だめじゃん。」
  息が継げなくて、ひびきは顔も上げない。
「集中、集中!」
「はっ、はっ、はっ・・・。せ、先輩、わたしって、どう、なの、かなぁ。」
「いつものタイムが出るんなら、いいセンいくって。おさげをあきらめればね。」
  腰まで伸ばした後髪を切れば、全国大会だって夢じゃないランナー、というのが、部内でのひびきの評価だ。入部当初、髪を切る、切らないで、いまは卒業生である二つ上の上級生と、かなりやりあった彼女である。
『そういうことじゃないのっ。』
  ひびきは、自分の思った返事がもらえなかったことに心で怒鳴った。自分の走りについての返事が欲しかったのではない。女の子として、男の子に告白されたことについての漠然とした質問に、的確な答えが返るはずもないのだが、それがわかるほど大人でもない。
  地面に座り込み、締めすぎを感じるスニーカーのひもをゆるめようと、ひざを曲げ、両手を伸ばした。
  先輩――ひびきの所属する陸上部の3年生である雅美は、ひびきの葛藤など露ほども知らず、座り込んでスニーカーをいじっているひびきに近づいて、話しかけてきた。
「髪でも切って来れば。だいぶ伸びてるし。気分も変わるし、いまのタイムなら、それだけでもずいぶん変わるわよ。」
  髪を切るのは、気分を切り替える儀式みたいなものでもある。それ以外にも、女の子はいろいろな自分流の気分転換法を持っている。だが、ひびきにはあまり適切なアドバイスではないと思いついたらしく、雅美はあわてて言い足した。
「あぁ、もち、おさげまで切れとは言わないけどさ。」
  ひびきは、前から見るとセミ・ショートに見えるが、腰まである後ろ髪のおさげは、自慢のロングである。
「センセは?」
「曜日でいないよ。」
「じゃ、帰る。」
「なにぃ?練習つき合わせといて、それかいっ、おまいさんは。」
  ひびきの唐突な撤退宣言に、雅美は腰に両手を当て、怒りが半分混ざった声で突っかかった。
「これ。」
  ひびきはそう言って、先輩の怒りをそらすアイテムを見せた。それは、切れてしまったスニーカーのひもだった。
  それも履くときではなく、ゆるめようとしたときに切れたのだ。信心深くなくても、別のことをしたほうが良い気にもなる。
「ああ・・・そう。それはお大事に。帰りにスペアを買っときなよ。」
「先輩は?」
「代わりに走るわ。でないと証言できないでしょ。運の尽きたヤツは、とっととお帰りっ。」
  証言とは、決められた時間の間、一緒に練習していたことをいう。ひびきがいる、いないに関係なく。「代返」というものである。
「はぁ〜い。ありがと、先輩。」
「貸しだよ。こんどオゴリね。音羽君によろしく。」
「はいはい。」
ひびきはグランドから引き揚げた。

  陸上部の部室には、シャワーとかいったしゃれたものはない。ひびきは誰もいない部室で下着だけの姿のまま、タオルでなるべく汗をふく。そのタオルを腰に巻き、下着も含めて着替えを済ませ、短くした紺色のスカートに、白地のセーラー服という女子高生ルックをまとう。脱いだシャツと短パン、使い終わったタオルに下着は、まとめてカバンに詰め込んだ。
『よろしくって言われたって、話もしないのに言えないよっ。』
  そんなことを考えながら、髪を結び直すために一度おさげをほどく。手ぐしで広げて風を通してから、ひとしきりブラシを通す。そして腰よりちょっと上の位置で、お気に入りの大きな赤いリボンを結び、まとめた髪を縛る。そうしてできたおさげを、首を振って左右に揺らして確認した。
  とどめに、制服のセーラーの胸元に同じ色のリボンを結ぶ。これも学校が決めているものより色が鮮やかで、ボリュームがある。おさげのリボンと合わせてあるのだ。だからと言って取り締まるほどの厳しい学校ではない。
『これでバッチリ、カワイイっしょ。響だって・・・。』
  と、ひびきの思考は自爆した。響こと、音羽響。ひびきと幼馴染の同じ歳の男の子。そして昨日から、ひびきの心をかき乱し、集中力を奪う元凶となっている人物。
「えぃ、もおっ!」
  衣類しか入っていないことをわかっていて、ひびきは部室のドアへカバンを投げつけた。にぶい音がして衝突したカバンは床に落ち、もう一度、音をたてる。
  それを尻目に、ひびきはスパイクとひもを抜いたスニーカーを、自分のロッカーに放り込んで乱暴に閉めた。今度は金属製ドアの「バンっ」という音が、1人だけの部室に響いた。
「あ〜あ。」
  ため息が声になる。
「めんどいなぁ、もう。
『ここではないどこか、それは約束の場所。そして世界の果て。』かぁ。
・・・ってなんだっけ?」
  ひびきは、このフレーズが自然に浮かんできたことに自問自答してみたが、どっかで聞いた曲だったか、などと自己完結した。
『そう、ここは面倒くさい。学校があって、勉強があって、受験があって、響がいて・・・。どこか行っちゃいたい、かも。』
  部室の戸の前のカバンを、拾ってはたく。財布と小物入れを入れたうえで、カバンを肩にかけると、ひびきは部室のドアを威勢よく開け、そのままの勢いで外へ踏み出した。
「えっ!?」
  敷居の向こうには、床がなかった。踏み抜いた足の側から、体をひねるように肩から転ぶ!と思った瞬間、床に衝突せずに落下した。ひびきの手の中から、部室のドアのノブがすり抜け、部室の出入り口そのものが、白か、光でまぶしくて見えない空間の向こうへ、飛び去っていった。
視界のなかで、おさげとそれを結んだ赤いリボンが、なびいて踊る。ひびきは意識を失う瞬間、誰かを呼ぼうとした――

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