彼はどこまで先に行ってしまうのだろう。
彼は振り返らずに走り続けていく。その足跡を追いかけている少女の存在など気にも止めずに……。
それは彼にとって喜ばしいことだと思う。しかし、少女にとっては……少し複雑だ。
見えていた背中が霞(かす)みがかったことに焦りを感じ、必死に、それこそ死に物狂いで追いかけ続けた。
いつか、その背中に触れる日を願い続け――自分の命さえも捧げ尽くせることを願い続けて。
あぁ、もうこれ以上は見えなくなってしまう、見失ってしまう。
自分の走る速度では一生かかっても追いつけなくなってしまう。報われない結果だけが残ってしまう。
ならば……。
◇ ◇ ◇
大国アルファから、南に二十数kmの地点。
現在、選ばれた精鋭人が魔物の討伐に乗り出してから、数刻が経とうとしていた。急ごしらえの編成であったが、それもアルファの軍においては珍しいことではない。
少なくとも今、魔物が跋扈するこの外界を疾駆する者たちは、いずれも一隊を率いることができるほどの実力者揃いであった。
総勢四人。軍部でそれなりの経験を積んだ者ならば、一度は名を耳にしたことのある猛者ばかりだ。
無論、単純に実力順で選ばれた魔法師たちではない。それぞれの資質や戦闘での役割分担、集団での連携に欠かせない人員配置までも配慮されている。そして、そのバランスを取った上で、いずれも二桁魔法師、もしくは三桁魔法師が選ばれているのだ。
「急な討伐任務だが、それだけ急ぎだということもわかってくれ」
精悍な顔つきで先頭を駆ける男が、振り向くでもなく、静かに口を開く。その声は置き去りにされていく景色の中に、続く三人がぎりぎり聞こえる声量で放たれた。
彼はこの部隊内での隊長を任されていて、残る三人による部隊編成を組んだのも彼である。歳のほどは三十後半だが、順位だけでいえば二桁。それはこの部隊内で最高位にあたり、その経歴と実力に対し、隊内で異を唱える者はいない。
続いて、彼の口から、任務の詳細が語られる。彼の背後で隊列を維持しつつ、部隊員はそれぞれに表情を硬くしながら、それを聞いた。
あまりにも唐突に舞い込んだ討伐任務は、部隊編成後すぐに出立という運びになったため、この移動時間すら使って、情報を共有しなければならなかったのだ。
ただ、そうしたこともまた、この外界任務では珍しいことではなかった。
隊員同士の事前プロフィール確認などできているはずもなく、隊長の任務説明に続き、それぞれの自己紹介が順番に行われる。そんな中、部隊の最後尾に付けていた銀髪の少女が、抑揚のない平坦な声で名乗った。
「ロキ・レーベヘル。探知魔法師……」
意図してではないが、その名前は、部隊員らが最も強く反応したものとなった。この部隊――ひいては全軍人の中で、彼女ほど歳若い魔法師はいないからだ。そう、その名前は誰もが知っている。
だからこそ、彼女が件(くだん)の訓練生だということは疑いようがない。しかし、実際に自分の目で見るとなると、改めて驚きは隠せないようだった。
「702位です」
「……!!」
この中でロキの順位は最下位といえた。しかし彼女が口にした順位は、魔法師としてのそれだ。この部隊において、ロキはあくまで「探知魔法師」として同行している。
ならば告げられるべきは探知魔法師のとしての順位、いわゆる【探位】と呼ばれるものであるべきだ。
だが、ほぼ初対面の面々に対して、あえてロキは魔法師としての順位を名乗った。それは、周囲に侮られないための幼い牽制である。もっともそれは、彼女の年齢上仕方がないことだ。
「なるほどな。そりゃ“重宝”するわけだ」
そんな歯に衣着せぬ物言いをする男性隊員の声が、ロキのすぐ傍(そば)で鳴った。特段嫌味の部類ではなく、どこか呆れの色が混じったものだ。
「しかし……若いわね」
もう一つの声は、女性隊員のもの。優しい声色とともに、ちょっと危ぶんでいるかのような気配もある。
とはいえ、この部隊にロキが組み込まれた意味は十二分にある。
外界での任務には、探知魔法師と呼ばれる「魔物を探知する力に秀でた者」が同行することも多い。その存在は、任務の達成率・隊員の帰還率に大きく影響するとされるのだ。
しかしながら、探知能力は稀有な才能であり、国内を探しても三桁いるかというほどに人数は少ない。ましてや、魔法師としての順位を取得し、戦闘もこなせるとなれば、言うまでもないだろう。
それでも――。
「レーベヘル、君はまだ、探知魔法師としての実戦経験は乏しいはずだ。だからこそ、戦闘は我々に任せて探知任務に専念してくれ」
「了解しました」
隊長が目の端で一瞥すると、銀髪の少女は、何一つ読み取れないほどの無表情を貫いていた。だがふと不穏なものを感じた隊長は、そっと眉根を険しく寄せた。
表情こそ変わらないが、ロキの声音には、どこか鬼気迫る覚悟のようなものが秘められていたのだ。
外界における魔法師の心理的な動きとして、必ず存在するはずの恐れや怯えの気配。ロキからは、それがまったく感じ取れなかったのだ。
怯えと恐怖は魔物と戦う上で邪魔にもなるが、適度なレベルならば、危機感知能力を高めるだけの緊張感を与えてくれる。油断や隙を生まないためには必要なものなのだ。
それは、外界での任務をこなせばこなすほど、骨身にしみていく。だからこそ、熟達した魔法師ほど、常に最悪の事態を想定し、気を張っているものだ。
だが、今の彼女の心の奥底にはどこか……恐れすらも塗り潰してしまうほどの、得体のしれない感情が渦巻いているようにも思えた。
もちろん確証はない、ただ彼は、経験からくるぼんやりした予感を抱いただけだ。
――いや、無理もないか。
恐怖に真の意味で相対するには、それを受け入れるだけの心の奥行きが出来上がってなければならない。果たして彼女の歳でそれが可能かといえば……考えるまでもない。
だからこそ、隊長はロキの心の内にあるものを、巨大な復讐心なのだろうと推察した。それにより、恐怖を塗り込め、抑えつけているのだと思ったのだ。
この部隊の人員は、ほとんどが隊長が自ら召集したものだ。だがロキだけは、自ら志願しての参加だった。経験が浅いとはいえ、探知魔法師としての技量は総督のお墨付き。それを裏付ける順位も、申し分ない。
ましてや今回の討伐任務では、探知魔法師の存在は欠かせないだろうと、彼は考えていた。だが、昨今の状況を考えると、探知魔法師は引っ張りだこと言っていい存在である。
その確保は、最も困難なものになるだろうと、隊長は懸念していた。だからこれは渡りに船であった――任務の遂行ということだけを考えれば、だが。
――まさか、ここまで幼いとは。
ロキの場合は自らの志願であり、編成時、面接に相当する手続きを行なっている余裕はなかったのも事実。だが、改めて彼女の外見を目にすると、なおさらその幼さを強く感じてしまう。そもそも考えてみれば、順位を加味してもこの年頃の少女が、外界に出て良いはずがない。
――とはいえ、任務は任務、か。
私情を強引に心の片隅に追いやり、隊長は改めて自分の仕事に意識を集中させた。
今回は任務の遂行速度を重視し、人数も絞って精鋭を集めた。基本は、隊長を含めて男女二名ずつ、四名で構成された部隊だ。
隊長は一度だけ気づかれないように嘆息し、話題を切り替えた。
「さっきも軽く触れたが、今回は追撃戦だ……」
「では先の戦闘で、敵側の損耗が激しいということですか?」
隊長の情報に、即座に女性隊員が質問を被せる。
「なるほど、魔物のダメージを回復させないためか、追い詰められた化物ほど恐いものもないんだが。仕方ねぇ、やるしかねえな!」
意気込むもう一人の男性隊員。彼があげる気勢は、魔法師としての使命感に基づいたものだろう。
実際、戦場で手負いの魔物をぬくぬくと放置し、その絶命を待つほど馬鹿な判断はないのだろう。それは一種の怠慢であり、魔法師としての手落ちでしかない。
いくら重症を負おうとも魔物の命たる【魔核】さえ無事ならば、彼らは常に身体を修復させる可能性を秘めている。
また稀にではあるが、弱った同胞を喰らい、独自の進化を遂げてしまうケースもあり、その場合はその魔物が、魔法師にとって厄介な存在になるのは間違いない。
潜在的に魔力を取り込み、それを己の資質へと置換する。自身の力へと変える魔物の性質は、人類にとって忌み嫌うべきものだ。
魔核を破壊して初めて「討伐完了」とみなされるのは、そのリスクを回避するためでもある。
しかし、男の気勢を隊長は逸らすように訂正した。
「そうなる……そうなるのだが、今回は少々事情が違う」
結果ではなく、過程の話。一瞬言い淀んだのは、果たしてこれが伝えるべき情報なのか迷ったためだ。だが、それを隠しておくことで、予期せぬ事態を招くかもしれないと判断し。
「遭遇戦ではあったようだが、相手はAレート。探知魔法師を欠いた部隊であったことと、帰還途中だったこともあり、戦闘ではなく、退避の選択を取ったらしい。なお、幸いにも人員に被害はなかったが、その隊曰く、対象の魔物には、遭遇時からかなりの損傷が見られたらしい」
だからこそ、その隊員たちは無事帰還できたのだろう、と付け加える。
「無い話ではありませんね。つまり、縄張り争いに敗れた魔物ということでしょう」
「おそらくはな。要は気が荒い奴らに追われた、はぐれものだ。とはいえ、魔物同士でやりあってくれるならこっちは願ったりなんだが」
疲れを言葉に表したような隊長の台詞は、今回に限ってのものなのだろう。魔物は傷を癒やしたり、己の資質を高めるために捕食行為をする。よって知らぬ間に生存競争の末、高レートの魔物が生まれることが、稀にあるのだ。
男性隊員は、少し言葉を濁しながら、不謹慎な言葉で応じた。
「魔物同士で食い合うなら、目の届かないところでして欲しいもんですよ」
口ではそう発していても、言葉とは裏腹に、隊員たちの心の内には程よい闘争心が湧きあがっていた。
そう、目の届くところで瀕死になっている高レートなど、格好の獲物だ。幾度となく煮え湯を飲まされてきたことを考えれば、この機を逃す選択はない。
リスクを承知で、人類が生き延びるために、討てるものは討っていかなければ明日はないのだろう。
そうして生き繋いでいくしかないのだ。
抵抗し続けていくしかないのだ。
自分たちが生きていく場所は、断固たる意志で守りぬかねばならない。
「標的がどこから来たかはこの際置いておく。俺らの仕事は、速やかに目標を殲滅することだ。いいな!」
重苦しい決意の首肯が隊員たちの間で交わされる。それを少し引いた位置で見ていたロキの身体に、ふと、彼らとは違った意味で力が入った。
その内に芽生えた、小さく頑ななまでの決意。それは利己的なものだと、ロキ自身も自覚している。だから、これほどまでに身体が強張る。心の内に湧く背徳感や罪悪感が、震えへ変わっていくのだ――だからこそ少女は、その感情を、固く拳を握ることで紛らわす。
そんなロキの瞳が、かすかな狂気に似た気配を孕んでいた。
ふいに先頭を駆ける隊長が一瞥し、目が合う。きっと全員に向けた覚悟の確認のつもりだったのだろう。しかし、反射的に視線を逸らしてしまったロキは、何とも言えない居心地の悪さを感じた。その原因は分かっている。
ロキと彼らではそもそも目的意識が決定的に違うということ。
崇高な思想も、命令遂行への使命感も……更にいえば、危険を冒す理由さえも……。疎外感は、常にロキを孤独にする。だが、彼女にも譲れない物がたった一つだけある。
それは……自分の命の使い道。
自分の命は、すでに捧げられたもの……ロキはそう考えている。だからこそ、彼らと同じように、使命感に基づいて、命を人類のために投げ打つことはできない。
そう、自分の決断だけで、そうするのは許されないことなのだ。しかし、人が――特に魔法師が生きていく上で選択の自由などそう多くはない。だから意固地に己を貫くのもそろそろ限界が近づいていた。
急な任務のため、部隊の移動はかなりハイペースだったが、ロキ以外にほとんど呼吸の乱れはない。彼女の疲れそのものは、その精神の未熟さと、長距離を走ってきた疲労だけではないのだろう。
停止の合図を受け、三人がそれぞれに速度を落とす。
「……周囲敵影なし」
即座に探知の結果を伝えるロキ。
これまでも魔物の反応があれば逐次伝えてきた。だが、ここら一帯の魔物は探知に引っかかりすらしない。
「おかしい、移動したか」
座標的な位置は間違っていない。ロキの探知結果に異を唱えたのではなく、単純にこの周辺ならば引っかからないことはないと考えてのことだ。
隊員らが続いての指示を待つが、その間は僅か。
「レーベヘル、君の探知は“魔力ソナー”で合っているな」
「はい、索敵範囲は1km弱ですが、高レートであればまず捕捉できないことはありません。ましてや、この一帯に、魔物自体の数はかなり少ないはずですので」
隊長が一拍ほど思案し。
「探知方式が魔力ソナータイプならば、特定の条件では察知できない可能性がある」
この言葉に、ロキはかすかに頷いた。探知魔法とは魔物を捕捉する魔法技術一般を指す。それ以外にも探知手段はあるが、それらは基本的に、魔法の系統に左右される。
その中でも、探知手段として確実性が高いのは魔力ソナーだということは、広く知られている。だが、それも万能というわけではなかった。
「言わずもがなですが、地下は探知範囲外となります。他にも上空、高高度に対しては、探知の有効範囲が制限されますので」
「わかった。ではまずは、地中か上空の線で捜索しよう。魔力ソナーが乱れるのは閉ざされた密閉空間や、索敵が及びにくい狭い場所だ。時間も限られている、夜を外界で過ごしたくはないからな」
「おっしゃる通り」「了解です」
隊長の指示に賛同する声は二つしか上がらなかった。当然、全員の視線が、残った無言のままのロキに、集中することになる。
ロキは思案するでもなく、そっと指を一舐めして、宙に突き出した。風向きを確かめるためか、そんな原始的な方法を取った彼女にやや驚きつつ、全員がロキの動向を静観する。程なく、ロキは小さく首を傾げて。
「ちょっとこの香り……変じゃありませんか」
改めて、微量な香りを感じ取るために、意識を嗅覚に集中させる。
だが、その微かな甘い香りは、外界において特段珍しいものではない。この緑溢れる雄大な世界には、多くの匂いが混ざり合っている。
当然、その中には花や果実も少なくはないのだ。
「そうか? ん……そう言われるとわずかに……? というか良く気づいたな。こんなの意識しなきゃわからないぞ」
無数に混ざりあった草木の匂いの中にある、異質な甘さを持つ香り。それは何十人分かの料理食材の中に塩を一摘み入れた程度の、ごく微細なものでしかない。しかし、それをロキだけは敏感に感じ取ったのだ。
他の隊員らも、意識しなければまず気づかないレベルだ。いや、むしろ「そう言われれば、という感覚が生む先入観から、間違って脳が感じ取ったのだ」と断言されれば、納得してしまう程度の微細さである
しかし、ロキは疑いすらせず、その香りが流れてくる方向に向かって歩き出した。隊員たちの怪訝な視線を遮るかのように、隊長は一つ頷いて、彼女の後に続く。
だが、それに倣った隊員たちは、まだ半信半疑、といったところだ。それも当然、魔力や魔法的要素を欠いた探索ほど信用ならないものはない。
魔法を操る魔法師ならばこそ、それは至極まっとうな感覚である。まして時間が限られているのだから。
最初こそは疑いを持っていた隊員たちも、しかし、十数分歩いた時には、そんな疑念はすっかり消え去っていた。
そのあまりにも芳醇過ぎる香りは、明らかに異質。
しかも一歩一歩足を動かす度に、その匂いは濃くなっていく。
「隊長、すでに敵の術中に……」
背中を滑り落ちる冷や汗が、思わず男性隊員にそう口を開かせた。
すでに部隊が危機的状況に陥ってしまっているのでは、という最悪の事態を想定して。
高レートの魔物の中には、策を弄する知能があり、魔法を使うものも存在する。だからこそ。これほどの異変が自然発生したとは考えづらい。
「いや、これは魔力や魔法による異変じゃない。純粋な芳香の粒子として嗅ぎ取れる、大気中に放たれた匂いだ。幻惑系の魔法であるならば、こちらにも多少の備えはある。だからこそ、ここまで強く認識できるほどの香りは、魔法由来ではあり得ない……だろ、レーベヘル」
その潜めた声に、ロキはペースを落とした。匂いは、もう異臭と呼べる段階に及んでいる。すでに全員が口元に黒いマスクを装着していた。
「ですね。ただ、普通ではあり得ないほどの、奇妙な不自然さが……」
肯定はしたものの、具体的な原因まではロキでも見当がつかない。
原因を探すより早く、集団から少し先行していたロキの足が止まり、彼女は木の陰にさっと身を隠す。そして全員に指でジェスチャーを送った。
示す先には巨木の根が異様に盛り上がり、巨大なアーチを作っていた。
その「門」から先には、薄暗い闇が広がっている。奇妙なトンネルの内部は、陽が差し込まない薄暗い地下へと続いているようだ。
隊長はここで、ロキに変わって一行の先頭に位置取る。
彼は身体を屈めて、臨戦態勢に移った。
「むせ返るほどに甘い匂いだ。どんな効果があるかわからない、細心の注意を払え」
ここまで近づけば、ロキの探知も格段に強度の強いソナーを発することが可能だ。
故に――。
「いますね」
「穴の内部構造は探れないか。かといって誘き出すわけにもいかない。もしかするとこっちが誘われているのか? だが、どちらにせよこの機は逃せんよな」
その薄暗い穴は、横幅だけでも大人が二人並んで通れるほどだ。最初は狭かった穴を、無理やり押し広げたような真新しい擦り痕が、巨木の根に付いていた。
今現在、これほどの体躯の持ち主は、外界にそうはいない――魔物を除けば。
決断に割く時間はなかった。意を決した一行は、それぞれにAWR(アウラ)を抜いた。いつでも戦闘に移れるように警戒しながら、どこまで続くかわからない道を下っていく。
魔物の有する嗅覚は、魔力を感じ取るタイプのものが、大半を占めている。だからこの限られた入り口ならば、侵入者をすでに察知できているだろう。
それでもなお、反応がないということは……やはり誘われているのか、という疑心が誰もの心に湧き上る。
奇襲で一気に畳み掛けることが、どれほど有効かは説くまでもない。しかし、この敵を相手にしては、それがもはや通用しない可能性は高い。
引き締まった隊員たちの覚悟の糸は、今にも千切れんばかりに張り詰めていた。
ふと、最後尾を歩いていたロキは、隊長からの不意の指示に動きを止めた。闇の中で目を凝らさなくとも、彼が何を言わんとしているのかがわかる。
すでに地下を二・三十mほどは進んだ頃ではある。
隊長が示した先は、地中の巨大通路の終わりの知らせ。
おそらく多少の空間が広がっているのだろう。太陽の光でも差しこんでいるのか、ほんのりと明るくなっている。
「最奥部にいます、注意を……手負いなのは間違いないですね、魔力の反応が弱々しい」
ロキは、薄闇の向こうに抜け出た直後の奇襲の可能性を暗に含ませながら、そっと告げた。そして探知結果から受けた印象を付け加える。この討伐任務において、隊長から知らされた情報通りだ。
もちろん、探知魔法といえど魔力ソナーを飛ばしているため、標的が敏感な感覚の持ち主ならば、気取られる可能性は高い。
この期に及んで、独断で探知魔法を発したことを咎める者はいなかった。すでに奇襲という選択肢が、失われているのは明らかだ。
魔力の流動が明らかに増す隊員たちを引き連れて、隊長の合図とともに一斉にトンネルを抜け、瞬時にクリアリング。
抜け出た場所は広大な地下空洞であった。鳥籠のように頭上から巨木が根を張っており、その隙間から漏れ出た陽が、洞窟内部を照らす陽の柱となって注がれている。
――予想外に広い。それに水の音も……。
ロキは、この場所が地表からほど近い場所、緑豊かな大地の下にある、一種の地脈にも似た場所なのだろうと推測した。
だが、そんな状況確認のゆとりを与えまいとするかのように、全員の意識が、強引に掠め取られる。まるでこちらを威嚇するかのような獣じみた唸り声が、空間に轟いたのだ。
磨り減った岩が繋ぎ合わさってできた石床の上を、堅い何かで引っ掻く音。それは、カチカチと空洞内に反響する。
陽の柱を通り抜けて現れた魔物の身体は、やはり魔物独特の赤黒さだ――だが、その赤黒い色彩は、全身を覆う体毛によるものだという点が、通常とは少し異なる。
光を反射するは濁った光――その毛は針金のようでもある。
【獣種】……一目でそう判断できる全貌は、体長3mはあろうかという獅子型だった。
背後にだらりと垂れる尾は、尖端に一際(ひときわ)毛が集中しており、差し詰め、武器のモーニングスターを思わせる、針の山で覆われている。
「――!!」
その魔物らしからぬ洗練された雄々しい姿……それに、ロキは一瞬圧倒された。しかし、その耳に、爪で地面を掻く音とは別の異音が届き、彼女は視線だけをそちらに向ける。
ベチャベチャと今も血を溢れさせているのは腹部。いや、良く見ると、魔物の全身、至る所から血が溢れており、まさに傷だらけという様相だ。最も重症である腹部は、魔物本来の緑がかった色が変化したらしき、黒い血で覆われていた。
報告通りだ。Aレートといえど瀕死の状態、おそらく相当の魔力を消費して、ある程度身体を修復したのだろうが、それも限界の状態だ。
魔物とはいえ、魔力は無尽蔵にあるわけではない。これ以上の修復は望めない。ともすれば魔力量もかなり消耗しているはずだ。
遭遇が数日遅れていたならば、魔物はあらかた、身体を修復し終わってしまっていただろう。だからこそ、「なんとか間に合った」と、その場の全員が思った。
「お疲れのところすまんな、こちらも仕事でな」
隊長はあえて余裕を見せる軽口を叩きつつ、緊張を途切れさせないように、神経を研ぎすませてジリジリと躙り寄る。
「手負いだからと油断するなよ。作戦通りだ――いいな!!」
両刃の剣を引き、真っ先に走りだす。残りの隊員も、それぞれAWRに魔力を通して回り込んだ。
今回の戦闘においてロキは主戦力ではなく、どちらかというと援護行動を任されている。
彼女は腰から無造作にナイフ型AWRを取り出し、目の前に放る。素早く空中で器用にキャッチしたそれを、両手の指に挟んで構える。
全員の状況が把握できるように距離を取り、一瞬の隙さえも見逃さない――探知魔法師に求められるのは戦闘能力ではなく、巨体の中から、魔物の生命たる【魔核】がある場所を捕捉することだ。
「【簒奪槍《ローヴァラス・ランス》】
まずは、隊長が仕掛けた。一直線に剣先を魔物に向ける。刀身が発光したのと同時に、腕を覆うように木が生え、尖端に向かって捻じれていった。瞬く間に長大な槍が構築され、勢いに乗せて至近距離からの刺突を放つ。
だが、魔物は巨体を一瞬で射線上から消して、大きく跳躍していた。
ドシンッと地面を引っ掻きながら着地した時、水が跳ねるような音も鳴った。
いつの間にか地面を水が浸していたのだ。魔法によってその下準備をしたのはもう一人の男性隊員である。続いて現れる、もう一人の影。二人はちょうど、魔物を挟んだ位置に付いていた。
「身体を支えるのは四本の足、なら、これは定石よね」
そう呟くように言ったのは、女性隊員である。魔物の着地タイミングと寸分違わず、濡れた地面が凍っていく。術者を起点としているのではなく、瞬時に魔法を置き換える高等技術。男性隊員が張った低位の水の魔法を、女性隊員は、より高位な氷系統のそれで置換したのだ。
一瞬で凍りついた魔物の足は、地面に張り付いたように動かなくなる。そのまま、徐々に膝まで凍っていくが。
「なっ――!! まだそんな力があったなんて……」
単純な跳躍一つで。あっという間に巨体は自由を取り戻した。実際、魔物は力技で強引に氷から足を引き抜いただけに見える。しかし、ことはそう単純な話ではない。
魔法を構成するためには、それを現実に投射できるだけの強度という概念が存在する。それは注がれる魔力量や構成に必要な、情報量の多さで決まる。
無論、彼女も高位魔法師であることを考えれば手を抜くということはない。
その構成を打ち破ったということは、ただの物理的な力技で、できることではない。
「瀕死じゃなかったのか」
そう愚痴を溢す男性とは別に、女性はすぐに気持ちを立て直したようだった。できればこれ以上、魔物に何もさせたくはない。
「隊長……」
言葉が途切れた。それが最後まで発せられる前に、魔物の脚が壁面を弾くように叩いたのだ。そしてその巨体は、瞬きすらさせぬ速度で、元の位置まで舞い戻ってきたのである。
「なっ――!!」「クソッ!?」
二人の隊員に舌打ちする余裕はない。流れ出る血液を撒き散らし、魔物が駆る巨大な脚は、凍った地面すらも次々と粉砕していく。
「ここは私が」
その言葉に応じたのは最も離れているロキだった。
隊員たちが視線を向けるのとほぼ同時に、目の前を電撃を纏ったナイフが横切る。その数、六本。
「【捕縛の雷網《ライトニング・バインド》】
六本のナイフを支点に電撃が網目状に展開する。それらは、そのまま魔物を包み込み、ロキが意図した一方向へと引っ張っていく。
しかし、電撃を帯びてもなお、魔物はがっしりと岩盤を掴み抵抗する。だが。
「ナイスだ、レーベヘル!」
隊長の声と同時に地面を踏みつける音。
魔法そのものは陳腐なものだったが、用途としては絶好のタイミング。ダンッと踏み込んだ足元から、小さな罅が走る。地面を走り抜けたそれは、魔物が食い込ませた爪と岩盤の間に届くや、小さく弾けて、その小さな爪痕を強引に押し広げた。
途端に魔物は爪の足掛かりを失い、雷網の張力に耐えられずにかすかに浮きあがる。続いて、捕まった獅子の巨体は、指向性を持った雷網の動きに引っ張られるようにして、瞬時に地面から引き離された。
そのまま壁面に叩きつけられ、続いて魔力を持ったナイフが、雷網を壁に固定するかのように、それぞれ六ヶ所に深く突き刺さる。
魔物の口から苦悶の息が吐き出されるが、ギロリと絞られた目が四人を捉えた刹那。
唸り声を上げながら、魔物は前足で、魔法の構成ごと雷網を引き裂いた。
――さすがにAレートッ!!
驚愕とともに、悪態を吐くかのように、内心で不敵な言葉を吐き出すロキ。
だがこの一瞬の時間すら、精鋭魔法師たちにとって、体勢を整えるのには十分だった。
洞窟の崩落を招くリスクよりも、魔物の討伐を優先した結果――雷網を切り裂いた魔物に、一斉に魔法の集中砲火が浴びせられる。
同時に、周囲に飛び散った岩の破片や立ち昇った土埃が、魔物の姿を覆い隠す。一瞬、全員の攻撃の手が止まった。
「レーベヘルッ!」
隊長のそれが、何を急かさんとするものなのかを、ロキは瞬時に理解する。
だが当然、ロキもすでに、神経を研ぎ澄まして魔力ソナーを飛ばしている。
今の攻撃で、魔物には更なるダメージを与えられたはずだ。動きが鈍れば、そのぶんだけ体内を精密に探ることができる――その結果。
「……!! 魔核は体内の中心に……いえ……移動してる!?」
驚愕とともに告げたロキだが、隊長を含めて全員が、次にすべき最善手を即座に理解した。
「なるほど、肉片すら残せないか」
吐き出す隊長に続いて。
「そんな魔物も稀にいますね」
「幸いにも瀕死だ。どっちみちやることは変わらねぇ」
そして、次の瞬間……誰もが集中を切らしていたわけではない。だというのに、魔物は粉塵の中から躍り出るように跳躍、そのまま壁面を疾走する。
壁面を駆けながらこちらに向けた顔、その開いた獰猛な口の中心に、魔力が集約されていく。間髪入れず、渦を巻いた魔力の弾が、頭上から隊員たちに向かって放たれた。
「風系統か」
高回転する風で編まれた弾丸。人間の頭ほどもある弾丸の速度は、神経を研ぎ澄ました精鋭相手では愚直な攻撃。まともに食らえば、身体に大穴が開くのは目に見えている――ただ、それも当たればの話だが。
隊員たちは即座に回避行動に移り、外れた弾の軌道は、そのまま地面に向かう。
だが――。
「隊長!!」
そんな警告の声に、隊長はふと、違和感を感じた方向に視線を向けた――その心臓が圧迫されるような死の予感に従って。
風の弾丸は二つ。口内から魔物が直接放ったものは、注意を向けるためのフェイク。
そして今、隊長に迫っている弾丸は、先程魔物が叩きつけられていた壁面の方向からのものだった。大気中の粉塵が巻かれるように、風弾に取り込まれていく。
――クソッ、化物風情が遅延魔法だと!?
回避行動の着地を狙われた形だが、彼には死線を幾度と潜り抜けてきた経験がある。その反応は、ほとんど条件反射に近いものだった。
即座に空中で剣を構え、注げるだけの魔力を流し込む。
構成を練っている時間など皆無だ。最も単純な形、発動までの最速の構成を脳が選び、剣が強固な鉱物に包まれる。
単純に相手の魔法を防ぐ方法としては最善の手だ。
魔法の発動が間一髪で間に合い、後は単純な力で押し返す……軌道を逸らすだけでもいい。腕力で押し返せるほど生易しい攻撃ではない。それこそ手首ごとへし折れてしまうだろう。
無傷とはいかないだろうと覚悟し、全力でもって抵抗する。
まずは確実に受け、そこから……。
そう考えた直後だった。弾丸が高速で回転して剣に触れ……そこから死地を脱するための、寸分すら狂うことを許されない戦闘技量が試される、はずだった。
「――ッ!」
衝突の衝撃はほとんどない。それもそのはずだ、逸らす? そんな甘い考えは許されなかった――弾丸は剣型のAWRを砕き、貫通してきたのだから。
宙に舞い、地面に零れ落ちていく、細々とした刀身の破片。
「隊長ッ!!」
隊員らの隊長の身を案ずる声は、魔物に意識を固定したまま放たれた。生存確認は耳のみで十分。
「だ、大丈夫だ」
まさに九死に一生を得たといったところか。とはいえ、風弾が腹部を掠めていったのは単純な幸運でしかない。
砕けた刀身が障壁となり、軌道だけでも僅かに逸らせたのがよかったのか、身体が反射的に回避を選んでいたのか、あの一瞬では、本人でさえも最悪の運命を覚悟したほどだ。
しかし――。
「グッ……」
身体には触れてはいないはずだ。それでも高回転で放たれた風の弾丸は、その余波だけで肉を裂いていた。
何より外界では命綱とも呼べる相棒――AWRが砕け散ってしまっている。刀身の大部分を消失させたAWRでは、魔法の発動を補助する機能は失われたと思っていいだろう。
「見ていたな? そいつは防ぐな! 回避しろ」
再び、魔物が壁面を駆けながら放つ弾丸。
螺旋を描く風の弾丸は先程放たれたものとは、比べ物にならない速度を誇っている。更には隠蔽のための迷彩効果までも、魔法の構成に追加情報として付与されていた。
周囲に注がれる陽光の柱を掠めて、風の弾丸の姿が、断続的に明滅を繰り返す。状況が万全であれば、弾丸の姿自体を、完全に隠ぺいし得たかもしれない。
迷彩効果のせいで、隊員たちは反応が一拍遅れた。一人が咄嗟に後転するために突いた手のすぐ傍で、風弾が、岩を掘削するように大穴を穿つ。
「修復より優先して、最低限の戦闘用の魔力を残していましたか――隊長は一先ず……」
女性隊員は隊長に退避を促そうとしたが。
「そういう、な!!」
隊長は地面に片手を付き、全ての構成要件を脳内で補い、全力で魔法を構築した。
即座に現象としてそれは現れる。
壁面を駆ける魔物の足元から、岩の棘が伸びる。それは腹の傷口を下から狙った、冷徹な一撃だった。
ただし、AWRで魔法の構成を補完していないためか、精緻なコントロールとは言い難く、魔物は棘が生える直前でそれを悟り、対角線上に跳躍して回避してしまう。
「俺ができるのはこの程度だ」
だが、隊長は回避されるのを予期していたように、もう片方の手を地面に叩きつける。
空中に逃げた魔物の頭上――巨木の真下――から押し潰すようにして角材状になった樹木が伸び、魔物の背を捉えた。
決して大ダメージに繋がるような魔法ではない。それでも魔物の回避行動を制限し、巨体の落下を促すには十分だ。
まるで後は任せたと告げるかのような魔法。それに、隊員らは遅れることなく反応した。
AWRを構えた二人はアイコンタクトだけで動き出す。熟達した魔法師らは、次に何をすべきかを瞬時にコンタクトし合い、意図を交換する。
着地を狙う――そう思われたが、魔物は落下に合わせて風弾を放ち、衝撃の反動でタイミングをずらした。そのまま着地する直前で魔物は体勢を変え、空中をダンッと蹴る。
予期せぬ行動、空を蹴るなどと、本来ならばまるで意味がない動きだが、魔物という異質の化物相手では、その常識は容易く覆る。
魔物が蹴った空間に残る、魔法の干渉痕。風属性ゆえに、一瞬で何もない空中を足場としたのだろう。
「そう上手くいくとは思ってないわよ」
それにも反応してみせたかのように、不敵な表情を浮かべる女性隊員。いや、端から着地を狙うつもりなどなかったのだ。
それこそ、魔物の動きが止まる一瞬を見計らっていただけなのだから。ましてや彼女は、自分の一撃だけで、この巨獣を仕留めることを考えてはいない。彼女の魔法の特性上それは困難である。何せ彼女が得意としているのは。
「【凍結者《スヴェル》】」
空気が凍てつく音は、凍った湖面が軋む音と酷似していた。
その発生源は魔物の周囲、否、その体内からだ。
対象物が有する魔力を瞬時に急冷凍する魔法、その魔法は氷系統の中でも高位魔法に属している。
魔物は空中でピタリと止まったかのように姿勢を硬直させた。
瞬く間にその身体は霜に覆われ、全身が凝固する氷に包まれていく。
続いて巨体を固定するかの如く、氷の柱が身体から延びる。それらは血管のように枝分かれして、地下内に蜘蛛の巣状に、その末端を張り巡らせた。
魔物の拘束を得意とする女性隊員が、持てる力を注いだ結果だ。
「手こずらせてくれるぜ」
間髪入れず向かいの男性隊員が魔法を被せる。
見れば彼は、AWRを地面に突き刺していた。
そこから溢れる奇怪な水。正確にいえば不純物を含んだ汚水のようでもある。
地面に向けてだらりと垂れた手の指先。そこに向かって、地面から湧く水流が、重力に反して操られたかのように昇っていく。
一本ずつ素早く伸びたそれらが、全て両手の指先に到達した時。地面との間に計十本の水流が、針金のような細い線となって生まれ出ていた。
「合わせろレーベヘル」
男性隊員が叫ぶ。さきほど女性魔法師が放った氷の拘束魔法は、如何に高位魔法とはいえ、すでにその透き通る表面に罅が走り始めていた。
「…………」
最も魔物から距離を取っているロキは、攻防の間にすでに十分な構成を終え、魔力を練り上げた状態で魔法の発動を待っていた。
まさに、一分の狂いもない。
合図もなく、男性隊員とロキは、二人同時に魔法を放った――途端、氷の拘束が解かれたのは、果たして魔物が自力で行ったのか、それともあまりに強力な魔法の余波に、その構成が焼失したゆえか。真実は分からないが、いずれにせよ、知る必要のないことなのかもしれない。
氷の拘束が解かれた瞬間、男性隊員の腕はしなるように振るわれ、両腕を交差させる。次いで、指先から伸びる水のうねりが、高速で魔物へと伸びていった。
巧みに指先を操ると、水の鞭は魔物の眼前で放射状に分かれ、全体を包み込むように、容赦なく巨体を叩いた――そう、叩いただけだ。
にもかかわらず、丸みを帯びた水の鞭の尖端は、その巨体の皮膚を、肉もろともザクロのように破き割った。一斉に、周囲に飛び散る肉片とともに、血が噴出する。
基本的に魔物の魔核は、最も安全な体内の中心、深部にあるため表層を抉った程度では致命傷にはならない。
だが――。
魔物が苦痛の叫びを吐き出す前に、それは容赦なく魔物を襲った。
「【大轟雷《ライトニング・レイ》】」
十分な構成を組み込み、ロキは掲げた腕を振り下ろした。
その手に握られたナイフ型AWRから細い電撃が迸る。
だが、その魔法の発現場所は、魔物の真上。
落雷――一瞬の白光が魔物を飲み込む。
雷撃の余波が洞窟内部の壁面を伝って外へと逃げていく。
肉が焼ける音とともに、空間に異臭が充満する。同時に、周囲に満ちていたあの甘い香りが綺麗に消失した。
だが、それはマスクを付けていた彼らには、気づく由もない。
炭化したように黒いシルエットが、薄闇の中で重い響きを立てて倒れた。隊員の男はその様子から確信したように言う。
「魔核が細かく体内を移動していても、あれなら全身黒焦げだな」
彼の鞭によって弾けた肉片から察するに、魔物はその内部にも深刻なダメージを負ったはずだ。その上で、あの雷撃の大魔法である。魔核も砕けたと推測するのは容易だ。
だが、確実に魔核を砕いたという確証はない。今の合わせ技で砕けたのならば、じきに肉体の崩壊がはじまるはずだ。
しかし、隊員たちがそれを確認することはできなかった。
力なく、ぐったりと地に伏せった魔物の巨体を注視していた彼らの意識が、唐突に遮られる。
洞窟内が、突然不気味な振動に満たされたのだ。続いて頭上から、慟哭にも似た悲痛な軋みが降ってくる。
「まずい、崩落するぞ!!」
隊長が言葉を発する前に、全員がこの事態に気付いていた。見上げる頭上から響くのは、空洞の天井を支えられなくなった巨木の根の、断末魔だった。
バキバキと根が折れる音。
元々不安定な構造ではあった。それが戦闘による衝撃で支えきれなくなったのだ。
続く「退避」の指示に、隊員たちはにべもなく、来た道目指して駆ける。
最後に男性隊員が、飛び込むようにして通路に逃げ延びたのと同時に、巨大な幹は支えを失って崩れ落ちた。
衝撃音が走る通路を一緒に吹き抜ける巨大な粉塵に、目も開けられない。
マスク越しでさえ息苦しさがあった。
そして……粉塵が晴れてから、ロキはようやくマスクに指を差し込み、顎まで引いて大きく空気を吸い込んだ。ロキに習い、全員が呼吸を繰り返す。まだ埃っぽくはあるが、先程より随分マシだ。
「――!!」
その中で唯一ロキだけは――探知魔法師である彼女だけは察知することができた。
「敵影――四十……いえ、探索範囲内に今も侵入、こちらに向かってます!」
「…………!?」
「どういうことだ」
隊長の声にロキは魔物が集まってくる原因を探り出す。
「――!! 匂い、匂いです。甘い香りがなくなっています」
「そういうことかッ!」
隊長の吐き捨てるかのような言葉に、全員がその真意を察した。
魔物は損傷した身体の部位を修復するために己の魔力を消費する。それが底を尽きれば外部から補給することが魔物にはできる。
それが【捕食】だ。
じっとしていればいずれは魔力も回復するが、深刻なダメージは魔物にとっても苦痛を伴う。
魔物は自然界から逸脱しているものの、その生態は自然界での生存競争から大きく外れるものではない。
寧ろ、多くの情報を取り込むため、魔物の資質・生態は種族で括ることは難しく、いずれもそれぞれが、限りないほどの個性を持つ。如何に同種であろうとも群れを成す個体はレートに比例して、減少する傾向にある。
魔物における生存競争とは、すでに魔物同士の力を尽くした闘争であるのかもしれない。であるならば、人間とはただの食料……もっといえば生存競争を勝ち抜くためのエネルギー源なのかもしれない。
あの魔物は自分が動けないからこそ、他の魔物を引き寄せる撒き餌として芳醇な香りを放っていたのだろう。ならばこそ、魔物の群れが的確にこちらへ向かいつつあるのも頷ける。
恐らくこの洞窟に身を潜めたのは、身体を休めるため以上に、捕食対象の魔物をおびき寄せるのに適していたからだ。
ここならば一方通行の上に残った魔力量でも十分対抗できると踏んだのだろう。だからこそ、あの魔物はまだ、戦える余力を残していた。
そんな言葉にならない推測は、芳しくない状況を克明に認識させる。
連戦のために残された己の魔力はどれくらいか。全員が死戦の予感に、表情を強張らせた。
その視線は自然と隊長に向けられていく。
命を預ける隊長の指示を待っているのだ。
命を懸けるに値する一言を待っている。
ロキの探知は、すでに1km圏内に魔物の群れが迫っていることを察知していた。それはまるで包囲するかのような攻勢であり、戦わずして脱出するのは不可能だ。
さらに、任務の目標であるAレートの討伐を、まだ確認できていない。最悪それだけでも確かめなければ、彼らが集められた意味がない。
しかし……その時間はすでにないといえる。
魔物の群れが、目視できる距離まで近づくのに、そう時間はかからないはずだ。そしてその数は、すでに百近い。幸いにも、その中にまだ、高レートの存在は確認できない――とはいえ、それも時間の問題なのかもしれないが。
「こうなっては離脱を優先……」
「私が残って確認します」
絞り出すような隊長の言葉を、銀髪の少女の声が遮った。
「すでに魔核の場所は特定していますので、私一人で大丈夫です。それに万が一、反撃を試みたとしても、残りの力では魔法の使用はおろか、ほとんど身動きもできないはず。魔核を捉えるのは一瞬で済みます」
そう、最速で任務を遂行できるのは、この場ではロキを置いて他にいない。
「隊長たちは退路を確保していただければ」
言い募るロキだが、誰もがその選択が最善であることを理解していた。ロキは戦力のメインにこそ想定されていないものの、実は、戦闘をもこなせる彼女が戦線に加われば、退路の確保は更に容易になる。だが、いずれにしても、隊長のAWR損失によって戦力が減じた現状では、この数全てを捌くのは不可能。本来は、即座に離脱すべき状況なのだ。
だからこそ、離脱と同時に任務の完遂を優先するならば……!
判断は隊長に委ねられた。
「それで行こう!」
続いて、不安そうな隊員たちに向け、隊長はこう付け加える――AWRなんぞなくても雑魚に遅れは取らん、と。
「わかっているな、時間は限られているぞ、レーベヘル……油断するなよ」
ロキにだけ向けられた隊長の目は、全員の生命を背負うゆえの、真剣な光に満ちたものだ。真摯な瞳が映す隊員の姿の中には、ロキも含まれている。たった数時間の付き合い、それでも隊長の視線は無償の信頼を宿していた。一度だけ喉を鳴らしたロキは拳に力を込めて真っ向から頷いてみせた。
全てを理解した上で彼女は、この機会を逃すことができなかったのだ。
大丈夫、ほとんど時間はかからないと、自分に言い聞かせて。
それぞれが反発し合う磁針のように、異なる方向に走り出す。
――ごめんなさい。
ただ一言、胸の内で吐いた謝罪。
もはや止めることのできない覚悟は、ロキの結んだ口元に表れていた。
そう、獅子の魔物の生存報告だけでも告げればよかったのかもしれない。
それすら気づかないほど彼女は必死だった。
なのに、最後に放った【大轟雷《ライトニング・レイ》】が、自分でも無意識のうちに、威力をセーブして放ったものだったということ。その事実に、彼女自身が戦慄していた。
それをロキ自身、探知による魔物の反応を探った時に、気付かされたのである。
舞台は意図せず整ったのだ。踏み出す覚悟は、己でも気づかないうちに、きっと随分と前から固まっていたのだろう。
ロキ自身、一度そう感じてしまえば、躊躇もなかった。だから、何者かが耳元で囁いた『この機会を逃せば……』という言葉に、ふっと背中を押されたように身を委ねてしまったのだ。
落ちてきた巨木は、ポッカリと空いた洞窟の縁にもたれかかるように傾いていた。
降ってきた岩や土砂を飛び越えロキは幹を回り込む。
悪魔の囁きが現実となってロキの背中を押す。幹に潰された魔物の下半身、頭部は埋もれて確認できないが、肉体はまだ原型を留めていた。
つまり、まだ魔核は生きている。
腰からナイフ型AWRを取り出し、慎重に接近する。魔力ソナーを至近距離で放つと、辛うじて圧壊から逃れた胴体部に魔核が移動していることがわかった。
地面に染み込む体液が微かな甘い香りを放っている。
ナイフに魔力を通して肉の壁を裂いていく。魔物のそれとは思えないほどナイフが滑る。それほどまでに魔力が底を尽きているのだろう。
身体を守るだけの魔力量すら残っていないのだ。
溢れ出る元は濃緑色だったであろう血、黒々とした体内。
手が血に染まっては剥がれるように蒸発していく。
その作業を淡々とこなすロキだったが、胸の内は溢れ出んばかりの思いが渦巻いていた。
大きく肉を裂いていく。
魔物の反応はない。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
魔物に対してではない。
ただただ、繰り返し反芻される謝意、
それでも手は止まらない。
それが誰に対しての謝罪なのか、ロキ自身よく分からなかった。必死に魔物を退けている隊長や隊員たちか、それとも魔法師全員に対してなのか。
今、ロキが行う行為は人類に対しての反逆、魔法師に対しての冒涜とも取れる行いだ。人が人であるために犯してはならない禁忌、それに手を染めようとしている。
それでも、全てを理解した上でなお、ロキの手は止まらなかった。
また一つ厚い肉を裂いて深く分け入っていく。
これが露見すればロキには最も重い罰が与えられるだろう。もしかすると、一生陽の目を見ることができないかもしれない。7カ国から追放される可能性もある。極端な話、そうなった後に、命があるかすらわからない。
国際法で定められた重罪なのだから、当然といえば当然だ。
情状酌量の余地もないはず。
それでもロキの手は止まらなかった。露見した場合のリスク、己の命を対価にしても止まることはなかった。それはこの千載一遇の機会を逃したくない焦りゆえの、甘い考えからだったのかもしれない。
しかし、彼女にとっては、見えなくなった「彼」の背中を捉えるために、なければならないものでもあった。
そうして自分の力を偽らなければ、己が立っている場所すらわからなくなってしまう。
生きていく価値を自分に見いだせなくなってしまう。
だから、ロキの手は迷いなく、何度だって肉を引き裂く――他人を欺き、自己の願いを優先させる身勝手に謝罪を繰り返しながら。
彼女は恐ろしいのだ、目の前から足元を照らす存在がいなくなってしまうことが。最近まで見えていたその背中に手が届かなくなってしまうことが。
それはいつか届くという儚い希望すらロキに与えてはくれない。
この機会を逃せば彼との接点は未来永劫失われてしまう。そんな己を駆り立てる予感は、ロキが生きてきた経験から導き出された。
彼女はそれほどまでに、軍に行き渡る合理主義の水で育ってしまった。
完全に染まりきり、教育されきってしまった。
此処以外の場所がわからないのだ。軍の中でしか生きていけない。一人では踏み出せない世界――そう、恐怖がその足を、楔のように地面に固定している。まるで泥沼に足を取られ、そこから抜け出せないかのような恐怖が。
だからこそ、「彼」が抜け出せたことが凄く嬉しくて、自分の全てを捧げることにやはり後悔はない。寧ろ、それを望んでいる。それしか望まない。
しかし、憧憬の眼差しを向ける彼自身が視界から消えてしまった。そして一人取り残されてしまった。
彼のために、と言った言葉が嘘になってしまう。それだけに縋って生きてきたのだ。意味が消えていく。自分の中で何も感じなくなってしまうのがどうしようもなく恐い。
だから全てにおいて、ロキがロキ・レーベヘルでいるために、優先順位で勝るものなど無い。もしあるのだとすれば、それは彼が望むものであり、彼のためのものでなければならない。
そして何度も切り裂いたナイフが目指す場所に到達した時、何かに憑かれたように、ロキはナイフを取り溢す。そして、そのまま赤黒い混沌の塊の中に、腕を突っ込んだ。
そこに小柄な肩までを埋め、生暖かい体温の中に、ひんやりとした冷たく堅い感触が指先に触れる。
それを力一杯握り、全力で引き抜く。貼り付く血管めいたものを引き千切り、体内から力を込めて取り出すと――魔物の身体が朽ちるように崩壊を始めた。
魔物の生命たる【魔核】、これが潰されていなければ、魔物を殺したとは言えない。逆をいえば、これさえ生きていれば、魔物は死んでいないと言えるのだろう。
手に乗り移った禁忌の色が、赤黒く手を汚している。
徐々に剥がれていく血液、その異臭すら気にせず、ロキは疲弊した顔でその【魔核】を強く握った。
――これさえあれば、これさえあればきっと彼に近づける。
そうこれは最終手段。使わなければそれに越したことはない。使わなければすぐに破壊すればいい……。
そんな悪魔の囁きが、すんなりと決断を促す。
体液が落ちた魔核は六角形、宝石めいた透明感のある光を宿していた。
そして【魔核】を宝石と言うならば、さしずめ宝石箱とでも例えられるケースを、ロキは腰のポーチから取り出す。
使い古したかのような黒いケース。艶のある手触りとは裏腹に、その表面は曇っていた。ケース内に魔核を置き、蓋を閉じる。
その上から魔力を流した直後、曇った表面に淡い光が走り、内側からロックされた。このケースは、人間が越えてはならない一線を越えた時代に使われた、禁忌に用いる道具。
魔核を保存するためだけの道具。知性あり、理性ありと謳う人であるならば、忌むべき道具だ。
大気中の魔力成分の遮断、魔核そのものの活動を抑制する。この中に数日入れておけば、魔核は発し続ける魔力の漏洩を自然と留める方向に移行する。
それは魔核そのものが生きているかのように、生存を優先した本能的行動。これを解析することは現代の技術では不可能だと言われている。
ロキは湧きおこる背徳心から、急かされるように懐へとケースを仕舞い込んだ。
少女はこの後、決して持ち帰ることを許されぬそれを、一時この外界のどこかに埋めるつもりだ。外界に目印となるような場所などそうありはしない。しかし、少女にはたった一つだけ決して忘れることのない場所があった。
彼女だからこそわかるあの地――不格好な岩が目印の地。全てが悲願を叶えることで終わり、残された少女の全てが始まったあの場所――その世界に打ち捨てられた場所を、少女は罪の隠し場所に選んでいた。
罪と絶望と希望を同時に閉じ込めたという、あの神話の箱のように。それは間もなく、彼女が真にそれを必要とした時に、人知れず掘り出され、再び日の光を浴びるのだろう。
軍服の上から触れば、硬質な感触に守られているような気がしてくる。そう自分を奮い立たせて、禁忌を越えていく。
大丈夫、抜かりはない……と。
動き出す未来にすべてを賭ける。そこにあるのは自己の望みを叶えるための渇望のみ。
だから歩き出す。
その一歩一歩は決して力強いものではない、寧ろ支えがなければ歩くことすらできないのだろう。その支えが人の道を外れるものであっても今は……。
急いで地上に戻ったロキを出迎えた陽の光は、罪を暴くかのように彼女を照らし出す。そんな光にロキは目を眇めはしても背けることはしない。
何者も彼女の歩みを阻むことはできやしない。
ロキ自身がその歩みをやめるまでは……彼女が自分の足で向かう先を、本当の意味で見失うまでは……「彼」以外には誰一人、彼女の渇望を満たすことはできない。
――今、私を始めることができる。
すべてを賭けて少女は彼に挑む。自分を捧げる……それだけを胸の内に秘めて。
あの頃の感謝とこれからの未来を勝ち取るために、報いるために――かの高みに寄り添えるようにと願い続けて、空っぽの器を満たすことだけを望み続けるのだ。