※このSSは、ネタバレを含みます。5巻を読んだ後にお読みください


■<Infinite Dendrogram>内某所

「ああ、やっぱり巻き込まれてたー」
 四方と上下にスクリーンが浮かんだ奇妙な空間。管理AI用の作業スペースで、管理AI一三号であるチェシャはフランクリンが起こした事件のログをチェックしていた。
 ログの中には、彼とこの空間で面識のある<マスター>……レイ・スターリングのことも記載されている。
「ジャバウォックと話したときにこうなるんじゃないかと予感はしていたけど、まさか本当に【大教授】の事件に巻き込まれてるなんてねー……」
 始めて間もないルーキーでありながら、二度の<UBM>との遭遇に加えて今回の事件。
これほどまでに事件に遭遇するのは、サービス開始以降の管理AIの観測記録でも稀有であった。それほどまでにレイのトラブル誘引体質……と言うよりはトラブルに吸い寄せられ、その上で見過ごせない性質が大きいということだろう。
「ハンプティと例の彼みたく、狙ってやってるわけでもないだろうにここまでかー。……リアルでも大変そうだなー」
 レイの性質と背負う苦労を思い、チェシャは猫の手で合掌した。
「さてと、レイ君のことはいいとして、とりあえず【破壊王】がボッコボコにした<ジャンド草原>への対応を始めないと。……<ノズ森林>に続いてここでもとか、本当に環境破壊王だよ。まったくもー……」
 つい先日、<超級殺し>を仕留めるために【破壊王】が行った無差別砲爆撃で全焼した王都北の森林地帯を思い出しながら、チェシャはカタカタと宙に浮かぶコンソールを叩き、必要なリソースを計算し始めた。
 細々とした作業ではあるが、現在は雑用を担当しているチェシャにとってキャラクターメイキングの受付と並んで主要業務である。
 他にも幾つかの業務があるものの、やはり広域殲滅型の<マスター>の後始末をする頻度は多い。
「元々の<ジャンド草原>の環境データを……これ違うー。これは【砲神】が《月は無慈悲な夜の女王》アルテミスで消し飛ばした<ファイヤーズ草原>のデータだからー……」
 特に火力特化の<超級>は『マップごと殺る』のが常套手段になっている者達もおり、同様の作業が頻発して混乱することも『偶には』ある。
 今回はその『偶には』のパターンだった。
「<ジャンド草原>のはどこにしまったっけなー……」
 ポンポンと何匹ものネコに分裂しながら、手分けしてチェシャは目当てのデータを探した。それはどこかメルヘンな光景であったが、やっていることは失念したデータの格納場所を探しているだけである。
 そうして、あれでもないこれでもないとチェシャが探していると……。
「D45887フォルダ内……ED686が……該当ファイルだ……わ……」
 チェシャ本体の背後から、そんな声が掛けられた。
 チェシャの分身の一体が指定されたフォルダを探すと、目当ての<ジャンド草原>の環境データを見つけることが出来た。
「あー、助かったよー」
「私が……あなたの……視覚情報を……保存していただけ……だもの……」
「……何で保存してたのかは知らないけどお礼は言うよー。ありがとう、ダッチェス」
 チェシャが振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
 顔立ちは絶世の美女であるものの、……漆黒の喪服と共に陰鬱な気配を纏っており、美しさよりもその淀んだ空気が印象に残る。そんな女性だった。
「…………」
 女性――管理AI七号ダッチェスは、無言でチェシャを見下ろしていた。
(……彼女は物凄く忙しいはずなのだけど、どうして僕のところに来ているのだろう?)
 ダッチェスの担当は、グラフィック面のほぼ全て。
 <マスター>が選択した視覚設定に合わせて、それに応じて変換した映像を見せている。
 それだけでなく、<マスター>とティアンが普段から用いているウィンドウも彼女の仕事の一部である。
 そのため、業務の繁忙さは管理AIの中でも屈指である。
「…………」
(僕を見つめたまま黙っちゃってるけど……ちゃんといる・・よね?)
 この同僚は姿が見えていても、声や息遣いが聞こえていても……その場にいないことがある。
 それは<マスター>に映像を見せているのと同じ要領で、存在しない自分の姿を他者の脳内に直接映し出し、声を伝えることがあるからだ。
 しかし、今回はちゃんと本人がその場にいるのではないかとチェシャは感じた。
「で、僕に何の用ー?」
「…………」
 問われたダッチェスは無言でチェシャの分身の一体を抱きかかえた。
「にゃ!? にゃにごと!?」
「……仕事に……疲れたから……。癒しが……欲しい……」
「…………そうかー」
 チェシャは「モフモフ……モフモフ……」と虚ろに呟きながら分身をモフる同僚に、憐憫の眼差しを向けた。彼女の両目にどんよりとした疲れが見えたからである。
「あー、でもさー。僕はたしかにネコではあるけれどー、それはそれとして異性の同僚にもあたると思うのだけどー……?」
「アニマル……セラピー……モフモフ……」
 チェシャの指摘が聞こえなかったのか、聞こえても無視したのか。目前の癒しを手に入れたダッチェスはブツブツと呟きながらチェシャの作業スペースから退出していった。
 無論、分身はそのまま持っていかれた。
「…………」
 チェシャは『同僚も仕事に疲れているのかー……』と思った。
仕方がないので、持ってかれた分身はダッチェスが満足するまで預けておくことにした。
そして彼自身は自分の作業コンソールへと向き直る。
 彼もまた、これから仕事をしなければならないのだから。
「……がんばるぞー」
 ちょっぴり重い声音と共に、チェシャは再びカタカタとコンソールを叩き始めた。

 こうして、<Infinite Dendrogram>は今日も管理AI達によって運営されていた。

 Episode End


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