『鬼っ子が行く』 玄法和尚の場合


 その『鬼っ子』と出会ったのは、何かの御導きであったのかもしれない。
ちょくちょくと付近に出没して、小さいくせによく駆け回る丈夫な童(わらし)だとは思っていたのだが、直接顔を合わせて、言葉を交わすようなことはこれまでなかった。
 賽銭泥棒の村の悪ガキどもを追いかけて山門をくぐったところでばったりと出くわしたその『鬼っ子』は、脇を駆け抜けていく悪ガキどもをちらりと見た後、目をぱちくりとさせてからこっちをまっすぐに見返してきた。
 その瞬間は、また童か、と舌打ちしたい気分だった。些少の賽銭くらいならば正直黙ってくれてやってもよいのだが、悪事を働くと罰されるのだという世のしきたりを覚えさせるうえでも怒って追いかけるまでが約束事のようなものだったのだが……その日はたまたま別口の童が現れてしまったことで、振り上げたこぶしの下ろしどころを逸してしまったのだった。

 「あ、おしょうさま」

 たしか柿の木畑の伊兵衛のとこの童だったと思う。器量よしの娘に似て涼しい顔立ちの小童で、まだ小さいくせにそのとき発した言葉がまたよく響いた。
 無邪気に手を振って挨拶しながらも、目の奥では何か別のことを思案しているようなふうな奇妙な様子で、とてとてと近寄ってきて、じいっと山門の向こうの様子を覗きこんできた。そうして本堂のきざはしからずり落ちそうになっている賽銭箱と、その下に散らばっている小銭の様子から、3歳の童にはありえない察しの良さでそこで何があったのか正確に理解したようであった。

 「集めるの、手伝うし」
 「おお、すまんなぼうず。手伝ってくれるか」

 お願いするまでもなく自ら賽銭集めに取り掛かり、手際よくさっさと作業を終らせてしまう。最近腰が硬くなってしゃがむのにも難儀しているので、拾い集めてくれたことには感謝しかなかったが……集めた小銭を両の手のひらで持ち上げて、

 「はい、69文ちゃんとある」
 「………」

 両手いっぱいにある銭はさぞや重かろうに、じじいの目が悪いと思ってかずいっと持ち上げてきたときには、そこまで近付けんでもちゃんと見えとるわと小言が漏れそうになった。
 が、そのまっすぐ見上げてくるくりくりした目を見て、その込められた真の意図が理解されるに及んで、年甲斐もなく言葉に窮してしまったのだった。
 賽銭を誤魔化していないことを、この年端もない童が誰に言われるでもなく自らの発するところで証明しようとしているのだ。数も多いうえにいくつかの種類もあった小銭を素早く合計してしまったことにも驚かされたのだが、それよりも何よりも、おのれが賽銭泥棒の一味でないことを、その嫌疑が掛けられる危険をわずかでも怖れて、即座に身の潔白を証明すべく散らばった銭の回収に協力を申し出たのだろう機転の利きようにただただ驚嘆させられてしまったのだった。
 計算ずくのその行動力が、明らかに年齢相応であるとは言い難かった。

 (…この子、ただものではないぞ)

 こんな田舎の、それも教養など欠片も持ち合わせていない農民の一家に、このような頭のめぐりのよい子が生まれるなどまさに奇跡でしかない。
 なにより銭勘定に対する素養は、教えられなければ自然に身に付くようなものではない。きっと誰かに算術の手ほどきを受けているに違いないのだが、さて、どこのだれが貧乏農民の洟垂れ小僧相手にそんな酔狂をするものか。
 賽銭を受け取って、ついまじまじと見返してしまうと、童は熱い湯にでも触れてしまったように跳ねるように後ずさって、そのまま逃げ出してしまった。こらこら、おまえを犯人だなどと思ってはおらんというのに。ちょっと、待たぬか!



 それ以来か、ことあるごとにその童の姿が気になりだしたのは。

 (あれはきっと、間違って人の子に生まれてしまった鬼の子に違いない)

 もちろん鬼なんて生き物かせこの世にいるなどとは本当に信じてはいないのだが、たまに普通の人である枠を簡単に踏み越えてしまう、『傑物』としか言いようのない才能の塊のような人間が生まれ、歴史に足跡を刻んでいくことがあるのは知っている。
 むろん実際にこの目で見たわけでもなく、書物や口伝など先人の知識を伝え聞く形で知っているだけなのだが、もしかしたらあの童が、自身の目で初めて見るそうした特別な人間であるのかもしれないとの思いが、常に心に引っかかっていた。いきおい村人たちの生活を眺め見ていると、ついあの『鬼っ子』の存在に目を奪われがちになる。
 あのぐらいの年頃の童は、日々とどまることなくぐんぐんと成長していく。才気などという目に見えない特性は村人にはむろんまったく見えないので、ほとんどというかすべての村人たちがあの童をただの洟垂れ小僧扱いし、たいていの場合気にも留めなかった。その無関心のせいで輝くような才気がこんな片田舎の草莽に沈んでいくのかと思うともう居ても立ってもいられない気持ちになったりもした。
 よし、それならばこの自分があの童を拾い上げ、育ててやろうではないか。
 愚僧は思ったのだ。
 田んぼで泥だらけになって失われていくにはあの才気はあまりにも惜しい。ならばせめて仏門に入って勉学に励めば、あるいは童の輝かしい将来が拓けるやも知れぬ。この自分が手取り足取り教え込んでやろうではないかと。
 大原のようななにもない片田舎から十哲(じってつ)のごとき逸材が世に躍り出て、その類まれな才能で本山の取り澄ました高僧たちの度肝を抜く風景を想像しただけで、なんだかかなり痛快な気分にもなってくる。
 顎をいじくって笑みがこぼれそうになるのを誤魔化していた愚僧は、少々油断していたのかもしれない。
あるときそんな独り言を、たまたま訪れていた大原の庄屋に聞かれてしまったのだ。
 そこまで頭の血のめぐりのよい童がいるのかと真顔で聞かれて、ついつい得意になってなにを言うおまえさんの孫ではないかと返したときには、ささやかな愚僧の野望は潰え去ったのだった。

 「…それほどならば、我が家へ引き取ってみるか」

 くふうっ。
 痛恨の失態とはこのことだった。