□■レフティについて

 少年は、レフティと呼ばれていた。
数ヵ月前に起きた王国と皇国の戦争。その戦場で倒れていた彼は、記憶と顔の皮膚、そして右腕を失っていた。
 皮膚と右腕は戦場を蹂躙した悪魔に貪られたのだろうし、記憶をなくしたのはその凄惨な出来事が理由であろう。
 しかし、命尽きる前にこのカルチェラタンの宿の主人に拾われ、介抱されて、命を永らえることができた。
 少年は身元を証明する類の品を何も持っていなかった。
 宿の主人も八方手を尽くし、少年くらいの年恰好で出兵したものの家々に当たったが見当たらない。
 名前を見る類のスキルでも、本人の記憶がないと正しく読み取れない。
 そのため、出自を知る術がなく……身元も不明だった。
 ジョブやスキルさえも思い出せない。従軍していたのだから何らかのジョブには就いていたはずだが、それすらも霧の彼方。《看破》でもステータスが然程高くないことくらいしか分からなかった。
 記憶も立場も、自らを立証するものが何もない。
 そのことは、彼に余人には想像もつかない恐怖を与えていた。
 ただ、宿の主人はそんな彼を哀れに思い、仮の名と宿の従業員という立場を与えた。
 レフティという名を考えたのは、宿の主人の娘……シャーリーだ。
 右手がないのではなく、左手がある。
 何もかも失くした少年に残ったものこそを、彼の仮の名とした。

 それから今日まで、レフティはカルチェラタンで穏やかな日々を過ごした。
 宿で働くうちに、自身という存在の不確かさも薄れ、恐怖も消えていった。
 また、シャーリーに抱きはじめた恋心も、その要因の一つではあるだろう。

 ◇

 宿の従業員として働き始めてからしばらく経ったある日、彼らが暮らすカルチェラタンで先々期文明の物と思われる〈遺跡〉が発見された。
 それによって多くの人間がカルチェラタンを訪れ、彼の働く宿にも宿泊していく。
 宿泊客は先々期文明の研究者などもいたが、最も多いのは〈遺跡〉の探索を目的とした〈マスター〉だった。
 ティアンの冒険者よりも多種多様な〈マスター〉達。
 彼らはいずれも〈エンブリオ〉という特別な力を持ち、何より死しても三日もすれば無傷で舞い戻るのだという。
 悪魔に敗れ、腕と顔と記憶を失ったレフティからすれば、羨まざるを得ない存在でもあった。
 レフティが自身に抱えた記憶がないことへの不安は薄らいでいる。
 だが、それでも腕と顔がないことは彼にとっては大きな問題である。
 今の彼は、いつかシャーリーと一緒にこの宿を切り盛りできたら嬉しいと思っていたが、右腕も顔もない自分には不釣合いだとも思っていた。
 それは容姿だけの問題でなく、戦場で敗れて半死半生の目に遭った自分では、何かが起きてもシャーリーを守れないのではないかという自らへの不信と負い目を感じていたからだ。
 それゆえに力を持ち、不死身である〈マスター〉を羨む気持ちもあったのである。

 しかし、その負い目は彼だけが感じているものだ。
 シャーリーの方も内心では彼が好きであるし、彼の負い目を気にしてもいない。
 加えて、彼女の両親や他の従業員も二人の恋心を微笑ましく見守っていることなど、彼は知る由もない。
 このまま何事もなく日々を過ごせば、彼自身の腕と顔への負い目なども自然に薄れていき、若い二人が恋仲になるのも時間の問題だった。

 ◇

 しかしその願い空しく――その日、カルチェラタンを悪魔の群れが襲った。

 ◇

「はぁ……はぁ……!」
 カルチェラタンの街が悪魔に襲われた日、木製の仮面をつけたレフティが息を切らして山道を駆けおりていた。
「早く……早く……!」
 レフティは焦燥と恐怖を抱えて走っている。
 それは悪魔に対する恐怖も含まれる。
 かつて自分の命を奪いかけたのと同種の悪魔を目撃したことで、彼の記憶の蓋は開きかけている。
 アルザール・ブリティスJrという名とどこかの領地の風景が、記憶の泡となって浮かんでは消える。
 だが、今はそれを考える余裕などない。
 悪魔に再度見えた恐怖よりも、かつて求めた自分の記憶よりも、優先すべきことがある。
「お嬢様……!」
 彼の想い人であるシャーリーは、悪魔が襲撃したときに宿にはいなかった。
 夜明け前にしか摘めないハーブをとるため、宿が所有する麓の菜園に向かっていた。
 〈遺跡〉の攻防が行われている山中ではないため、大丈夫だと考えてのことだったが……悪魔の軍団が襲撃してきたのならば話は別だった。
 かつての戦場と同じ蹂躙が、このカルチェラタンで行われるかもしれない。
「どうか、無事で……!」
 彼女の身を案じながら、レフティは全力で宿から街への道を駆け下りた。

 彼が辿り着いたとき、菜園は燃えていた。
 空を見上げれば、菜園を襲った後なのだろう悪魔が孤児院の方へと飛んでいく姿も目にすることができた。
「お嬢様……シャーリー!」
 レフティは声を張り上げ、懸命にシャーリーを捜す。
 菜園の塀や作物を焼く炎の中で、彼女の姿を捜して彷徨った。
 やがて……。
「ッ! シャーリー!」
 菜園の小屋の扉を開けたとき、その中で気絶しているシャーリーの姿を見つけた。
 悪魔が菜園を襲った際に隠れていたのだろう。
 そうする間に緊張で意識を失っていたらしい。あるいは、だからこそ悪魔に見つからなかったとも言える。
 レフティが駆けつけなければそのまま焼死していたかもしれないが、ともあれ彼は無事に彼女を見つけることができた。
 左腕しかない体で少し苦労しながらも、レフティはシャーリーを背負って小屋を出て、菜園を脱出する。
「シャーリー……無事でよかった……」
 レフティは、心の底から安堵していた。
 彼女の命が失われるという悲劇が、起きなくてよかった……と。
「ここからだと、街の中の避難所が近い……」
 山中の宿まで戻るには遠い。
 レフティは街中にある最寄りの避難所へ向かうことを決めた。

 ◇

 彼の判断は誤りではなかった。
 しかし純粋に……不運であったと言える。
 あるいは彼の不運さは、記憶と顔と右腕を失ったときから続いているのかもしれない。

 ◇

「……どうして、ここに」
 彼らは菜園から小さな路地を通って進み、避難所へ向かう大通りに辿り着いた。
 しかしそこには……一匹の悪魔が陣取っていた。
 それは群れをなしてこのカルチェラタンを襲撃した【ソルジャー・デビル】の一匹。
 他の悪魔とはぐれて別行動しているらしいその悪魔は、獲物を捜すように視線を彷徨わせていた。
 見れば、悪魔は背に生やした羽が切り裂かれており、近くには騎士が遺体となって倒れている。
 騎士と交戦して飛行能力を失ったために、他の悪魔から置いてきぼりにされたのだろう。
 だが、そうであるがゆえにレフティとシャーリーは窮地に陥っている。
(どうすれば……)
 レフティは、開きかけた記憶の扉から悪魔の強さを思い出す。
 一匹一匹が亜竜級に匹敵する悪魔。
 まともに相対すれば、人間など容易く噛み千切られるだろう。
「…………」
 このままでは気絶しているシャーリーを危険に晒すことになる。
 迂回し、他の避難所を目指すしかない。
 だが、レフティがそう考えて踵を返そうとすると、

『UBAaA……』
 悪魔は唸りながら、隠れているレフティとシャーリーの方へと向き直った。

「ッ……!?」
 音か、匂いか、あるいは別の要因か。なぜ気づかれたのかは分からない。
 だが、彼らの存在に気づいた悪魔は、地を駆けて彼らへと迫る。
「クッ……!」
 レフティは懸命に足を動かす。背負ったシャーリーを守るために悪魔から遠ざかろうとしたのである。
 見知ったカルチェラタンの路地を走ることで、悪魔を撒くことを目論んだのだろう。
 翼がない悪魔が相手であれば上空から見下ろされることもなく、見失う公算は高かった。
 だが、悪魔はそれを嘲笑うかのようにただ真っ直ぐに突撃。

 そして路地に面した建物の壁を次々に突き破ってショートカットし、逃走するレフティ達の前に姿を現した。

「そんな……!?」
 亜竜級の悪魔。
 ただ二言で説明される存在だが、しかしそれは決して弱い訳ではない。
 そも、亜竜級とは読んで字の如く、亜竜――【デミドラグワーム】などに匹敵する。
 ゆえにそのステータスをもってすれば、建物の壁を破ること程度は造作もない
 それほどの化け物を瞬時に一〇〇〇、二〇〇〇と呼べるからこそ、【魔将軍】は先の戦争においても恐れられた。
「…………シャーリー」
 路地で撒くことはできない。
 目の前の死悪魔からは逃げられない。
 であれば、レフティとシャーリーに残された道は悪魔に食われるか、あるいは……。
「……僕は」
 レフティは再び踵を返し、大通りへと走る。
 悪魔もまた、その背を追いかける。
 不思議とその差はさほど縮まらない。
 悪魔のAGIはSTRほど高くないのか。
 あるいは……。
「……あった!」
 やがて、両者は大通りへと辿りつき、レフティは大通りの一点を目指して最後のスパートを駆ける。
 そしてレフティは、

「――お借りします」
 悪魔に敗れ、死した騎士の骸の傍から……一本の細身の剣を拾い上げた。

 レフティはシャーリーを地面に下ろし、
 自身に残された左手で剣を握り、
 そして……悪魔へと向き直る。

「シャーリー……」
 地面に寝かせたシャーリーに、レフティは仮面の奥から決意と優しさを込めた視線を送る。
 そうして彼女の傍から十数歩前に進む。
「僕では、君を連れて逃げることは出来そうにない」
 そう、悪魔から逃げることはできない。
 必ずいつかは追いつかれ、二人ともに悪魔の牙によって散るだろう。
 その結末を覆そうとするならば……目の前の死悪魔を破るほかにない。

「だから、僕は君を守るよ。――命を懸けて、戦う」
 ――ゆえに彼は悪魔と彼女の間に立ち、悪魔と戦う構えを見せた。

『UGURUAa……?』
 悪魔は足を止めて、左腕しかないレフティが剣を構える様を不思議なものを見るように見ていた。
 だが、結局は獲物に変わりはないと、両の手を振り上げてレフティへと突撃する。
 それをレフティは、隻腕の剣で迎え撃たんとする。
 レフティが始めたのは、愛する少女を守るための戦い。
 しかしレフティが相対するは、亜竜級に匹敵するステータスの悪魔。
 ティアンにとっては恐るべき強敵であり、鍛え上げた上級職でようやく五分という相手。
 それを隻腕で年若いレフティが相手取ることは、無謀にも思えた。
 余人が見れば、一〇〇人の内の九九人は少年の死を確定事項だと考えるだろう。
 
 だが、残る一%の人間は……彼の中に勝算を見る。

「…………」
『……Gu?』
 レフティと悪魔が交錯した瞬間。
 レフティの身には一つの変化もなく、悪魔は脇腹に小さな刺し傷を作っていた。
 その一瞬の攻防の直後にも、レフティは悪魔へと向き直り構えを崩すことはない。
 片腕がない彼の、フェンシングの如き構えは……堂に入ったものだった。
 素人がなりふり構わず振るう剣ではない。
 少なくとも彼の人生の半分は剣を扱い続けてきたことを窺わせる。
『GouAAAA!』
 悪魔が再度突撃を敢行し、両者は再度交錯する。
アンドゥ……トロワ
 レフティは自身と悪魔の距離を把握し、
 絶好のタイミングで悪魔の攻撃を紙一重で回避し、
 剣を突き込んで即座に引き抜いた。
『Gou……!』
 悪魔の身体に小さな穴が空き、体液が噴き出す。
 その瞬間には、レフティは既に向き直っていた。
 常に悪魔を視界に捉え続け、距離を測り続ける。
 距離とタイミングを把握することで回避を成功させ、筋肉の薄い箇所を狙って突き込み、その上で硬直した肉に剣を取られないように即座に引き抜く。
 完全なヒット&アウェイ。
 当たらせず、深追いせず、しかし確実に敵手の命を削る剣術である。
 そうして、二度、三度と繰り返すように同じ光景が続く。
「…………」
 レフティは、剣を振る度に思い出す。
 かつて、自分が修めた技術とジョブを。
 メインジョブの名は、【貴剣士ノーブル・ソードマン】。
 蝶の如く舞って触れさせず、蜂の如く刺して勝利する剣士系統下級職。
 サブジョブの一は【隻剣士シンギュラー・ソードマン】。
 片手のみで剣を扱う制限を課すと共に、ステータス上昇を齎す特殊な剣士系統下級職。
 サブジョブの二は【闘牛士マタドール】。
 相手の攻撃を回避するほどにステータスが上昇する闘士系統派生下級職。
「……そうか」
 思い出していくのは技術だけではなく、なぜその技術を修めたかという記憶も含む。
 記憶が戻るまで就いていることすら忘れていた三つのジョブ。
 剣士系統の二つはどちらもが貴族の子弟に好まれるジョブであり、剣を握って初めて真価を発揮するジョブである。
 第三のジョブである【闘牛士】と合わされば、それは一つの剣術の形。
 渾身の力を込めて振るう剛剣とは対をなす、速度と技巧と優雅の決闘剣術。
 幼少の頃から、王国貴族の家に生まれたものの責務として闘う技術を修めてきた。
 だからこそ、『剣を持って戦う』という選択肢が自らの意識に残っていたのだろうとも、今の彼には理解できた。

 記憶と顔と右腕をなくした少年、レフティ。
 かつての戦争で死んだと思われていたブリティス伯爵家の嫡男、アルザール・ブリティスJrは……自らの在り方をこの瞬間に完全に思い出していた。

『UGOOOAAAAA!!』
 ステータスで勝るはずの悪魔は、しかしその指を彼に届かせることができない。
 手足を振るうか火を吐くかというシンプルな動きしかできない【ソルジャー・デビル】は、レフティの動きに対応できていなかった。
 元より、《コール・デヴィル・レジメンツ》で呼ばれた悪魔は、塊として運用し、数で圧すことが前提。
 群れをなしていたからこそ、かつての戦争でも騎士達を圧倒した。
 単体では、動きの拙さが目立つ。
 人間を千切れるSTRがあっても、当たらなければ意味はない。
「シッ!」
 対してレフティのジョブ構成は非力かつ脆弱である。
 しかし的確に回避し、急所をクリティカルヒットしていく。
 AGIとDEX、そして条件付きステータス上昇に秀でたジョブ構成であった。
 かつて悪魔の群れに蹂躙された少年は、しかしただ一体の悪魔に対しては互角以上に闘っている。
 だがこれは、レフティにしてみれば一度でも当たればそれで終わりの削り合い。
 レフティは悪魔の肉を、悪魔はレフティの精神を削る。
 死しても帰還する〈マスター〉と違い、彼は一度死ねばそれで終わりのティアン。一度の失敗で死を迎えるこの綱渡りは極めて過酷である。
 だが、彼はその綱渡りを……落ちることなく続けていく。
 自らの失敗が愛する少女の死に繋がると知っているがゆえに、彼は自らの精神と胆力の全てをもってこの綱渡りに挑み続けた。
 両者の攻撃が打ち合うことはない。
 打ち合えばその瞬間に剣は折れ、レフティとシャーリーの死が確定する。
 だからこそ、自らの攻撃だけを当て続けなければならない。
 それがどれほどに神経をすり減らす行為だとしても、彼は耐えた。
 紙一重の差での攻防を、彼は続けた。
 剣が刃こぼれして攻撃力が落ち始めても、
 悪魔の爪が彼の仮面を掠り、皮を失った彼の顔が露わになっても、
 彼は決してその綱渡りを止めなかった。

 そうして長く、短い時間が過ぎていく。
 街のどこかで演奏のような轟音が響き、炎が吹き上がる音が聞こえる間も続いた彼の綱渡りに……最期の瞬間が訪れる。
「…………ぅ」
 気絶していたシャーリーが目を覚ます。
 目覚めたばかりのぼやけた視界で、彼女はその瞬間を見た。
 悪魔の身と自らの精神を削り続けたレフティの一撃。

 その最後の一撃が――悪魔の眼窩を貫いていた。

『…………』
 既にHPを削られ続けていた悪魔はそのトドメの一撃に抗い、あるいは道連れにする体力が尽きていた。
 眼窩の剣が引き抜かれるのに合わせて……その身はゆっくりと大通りの石畳へと倒れ伏した。
「…………」
 レフティはそれでも悪魔に向き直り、距離を測り続けていた。
 一切の油断もない。ある訳がない。
 失敗は自身の命だけでなく、シャーリーの命にも繋がっているのだから。
 だが、そんな彼の綱渡りは……。

 ……悪魔が塵になって消滅したことで、終わりを迎えた。

「…………」
 それを見届けて、レフティは膝から崩れ落ちる。
 緊張の糸が切れて、精神が限界を迎えたのだろう。
「レフティ!」
 頭から石畳に倒れ込もうとする彼を、シャーリーが抱き留める。
「シャー……リー…………お嬢、様」
「レフティ……レフティ!」
 シャーリーにも分かっていた。
 彼が自分を守るために、どれほど危険な戦いに身を投じていたのか。
 多くの思いを込めて、シャーリーはレフティを抱きしめた。
「……あ」
 抱きしめられながら、レフティは空を見た。
 遠くの方で小さく見える何か……鎧を着た悪魔が打ち上げられて、それを追うように空へと昇った火球によって悪魔が焼き尽くされていた。
 それから程なくして、街中に聞こえていた悪魔の羽音や鳴き声は聞こえなくなった。
 どこかで戦いが終わったのだと……レフティにも分かった。
「…………」
 思うことはある。
 彼は必死の思いで手負いの悪魔を一匹倒した。
 けれど、悪魔を呼び出した【魔将軍】はそれを何千匹と出せる。
 さらに言えば、世の中にはその悪魔をまとめて倒せる者もいるし、それすら比較にならない者も大勢いるのだろう。
 どこまでも、どこまでも、この戦う世界には上がある。
 力を持ち、不死身の〈マスター〉と比べれば、自分はとても小さな存在なのかもしれないとレフティは思う。
 それでも……。
「レフティ……」
 それでも、泣きながら自分を抱きしめる少女を見て、思うのだ。

 彼女を守れてよかった、と。
 自分の小さな強さは、それだけで十分に意味があったのだ、と。

 レフティは穏やかな心で……そう思った。

 Episode End


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